
2022年06月07日
ダラスワ-ルドセンターに出展してみて3

2022年6月 7日 昔 ダラスワ-ルドトレ-ドセンター出店した事3
この見本市はケルン国際見本市に出店するよりも前でした。
余りにも色々な事を体験して今となれば何が先だったのかと思うのです。
不動産業者を通じて候補を色々見ましたが矢張りこちらの思うような所が中々見つからなかったが
サンフランシスコの物件がこちらの条件と合い何回か見ました。
そして 銀行からの融資も整いサンフランシスコへと決まりました。
そこはコンドミニアムで住んで良い 商売をやって良いと言う場所でした。
次はダラスの契約を止めて商品を動かしますが
その前にサンフランシスコを店舗にするから少し床をリフォム ホームセンタ-で資材を買い
リフォ-ムしました。
建具屋ですから床を張るのは道具さえあれば簡単な事でした。
次はダラスの商品をサンフランシスコ移動する事これは大型トラックの手配をして運んでもらいました。
よく考えて行動したら余分な経費も掛からず右往左往しないのですが
そこで苦労した経験はお金に換えられない財産です。
一生懸命頑張ったと言う事です。
これがダラスに出展しての良い経験でした。
2022年06月06日
ダラスワ-ルドセンターに出展した事2
2022年6月 6日 昔 ダラスワ-ルドトレ-ドセンターに出店した事2
この見本市はケルン国際見本市に出店するよりも前でした。
余りにも色々な事を体験して今となれば何が先だったのかと思うのです。
米志太民芸がダラスワ-ルドトレ-ドセンタ-に出展したのは1989年1月でした。
米国では見本市で年商の契約をとるので見本市を見るだけの客には感心を示さないです。
又ブ-スで見学していいか聞いてからでないと見学する事を嫌います。
そして日本と違うのはセ-ルスレップと言って
商品を販売する人必ずブース内にいて 各地域が重ならないように地域ごとに分けてあります。
レップは一つの会社だけでなく何社かと契約して商品を販売する仕組みです.。
日本でいえば営業マンみたいな人です。
営業成績で生活する人達で成績の良い人は凄い契約だと聞きます。
ここのブ-ス 駒大が凄く高い 現地の営業マンが色々情報を教えてくれます。
このブ-スを借りるテナント代を考えたら家が1件買えると言う事を教えた人がいました。
志太民芸がダラスワ-ルドトレ-ドセンタ-に出展したのは1989年1月と7月1990年の1月です。
ダラスのブ-スを借りていて 見本市が無い間は ブースは閉店しておくからすごく勿体ない
商品の価格にアメリカの陸送代が加算されそれが凄く商品の価格に加算されるから
高くなり売れる商品も売れなくなる
家が安いと聞いてからそんな馬鹿な と今度はアメリカの住宅は一体いくら位なのかと・・・
勿論建築する場所 土地にも価格が違う事は知っていました。
その頃オレゴンに知り合いがいてそこでも住宅が幾らするのかと調べました。
シアトル州 カルホルニア州の住宅も調べました。
人が住めて商売が出来る場所
矢張り限られた場所しかないですが・・・
古い住宅で手を加えて住める状態にした住宅が安いと思っていたら違うそれは高いのです。

この見本市はケルン国際見本市に出店するよりも前でした。
余りにも色々な事を体験して今となれば何が先だったのかと思うのです。
米志太民芸がダラスワ-ルドトレ-ドセンタ-に出展したのは1989年1月でした。
米国では見本市で年商の契約をとるので見本市を見るだけの客には感心を示さないです。
又ブ-スで見学していいか聞いてからでないと見学する事を嫌います。
そして日本と違うのはセ-ルスレップと言って
商品を販売する人必ずブース内にいて 各地域が重ならないように地域ごとに分けてあります。
レップは一つの会社だけでなく何社かと契約して商品を販売する仕組みです.。
日本でいえば営業マンみたいな人です。
営業成績で生活する人達で成績の良い人は凄い契約だと聞きます。
ここのブ-ス 駒大が凄く高い 現地の営業マンが色々情報を教えてくれます。
このブ-スを借りるテナント代を考えたら家が1件買えると言う事を教えた人がいました。
志太民芸がダラスワ-ルドトレ-ドセンタ-に出展したのは1989年1月と7月1990年の1月です。
ダラスのブ-スを借りていて 見本市が無い間は ブースは閉店しておくからすごく勿体ない
商品の価格にアメリカの陸送代が加算されそれが凄く商品の価格に加算されるから
高くなり売れる商品も売れなくなる
家が安いと聞いてからそんな馬鹿な と今度はアメリカの住宅は一体いくら位なのかと・・・
勿論建築する場所 土地にも価格が違う事は知っていました。
その頃オレゴンに知り合いがいてそこでも住宅が幾らするのかと調べました。
シアトル州 カルホルニア州の住宅も調べました。
人が住めて商売が出来る場所
矢張り限られた場所しかないですが・・・
古い住宅で手を加えて住める状態にした住宅が安いと思っていたら違うそれは高いのです。
2022年06月05日
ダラスワ-ルドセンターに出展した事
2022年6月 4日 昔 ダラスワ-ルドトレ-ドセンター出店した事1
この見本市はケルン国際見本市に出店するよりも前でした。
余りにも色々な事を体験して今となれば何が先だったのかと思うのです。

ダラス見本市
米国の地図を見ると大体ほぼ中央にテキサス州ダラスがあります。
ダラスフォ-トワ-ス空港の面積は静岡県と同じ位と聞いています。
又空港を高速道路が横切っています。
そしてケネデ-大統領が暗殺された町です。ハイポイントの見本市を見学してあまりにも残念だった為 主人は他にないかと色々探して
ダラスにはワ-ルドトレ-ドセンタ‐と言う大きなビルがあり、家具やギフト等
ここではさまざまな国際見本市が開催されることを知ったのでした。
ここの見本市を見学に行き どのように開催されるのかと言う風に見ていました。
その後見本市開催のブ-スを見学したのですが見学だけなら仕事の邪魔だからと
断られるブ-スもありました。
セールスレップと言うのは営業の場所のテリトリ-が決められていて日本とは
ちがう売り方り方だと思いました。
2回目見学してここのブ-スを借りる事を決めたのでした。
実は1988年7月出展の予定で日本から家具等をコンテナで送りましたが通関業者の手違いで
通関が通らない為見本市に間に合いませんでした。
私たちは見本市の為に日本から出掛けて行きましたがこの時は見本市出展が出来ない為とても
悔しかったです。
2022年05月31日
ケルン国際見本市を目指した12
2022年5月31日 ケルン国際見本市を目指し2度目の挑戦て 12

これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
ケルン国際家具見本市出展 2度目の挑戦
ケルン国際見本市が終わりブースのかたずけをして商品は倉庫に入れる様に業者に手配はしてありました。
家具を梱包して自分のブ-スに纏めて置いたが
トイレにいったり事務局に挨拶をしたりでいたが・・・
戻ると家具を置いたコマに帰ると商品がない
ええ~跡形もなくなっていた。 そんな馬鹿な
保税貨物扱いにしてありそれが無くなるとは・・・
直ぐに倉庫会社に連絡をした。
事務局にも相談した。
家具が出てこないとなれば警察に届けなくてはならない。
私たちも帰国が遅れる それは困る事です。
数時間経ち 倉庫会社から連絡が来た。
トラックの運転手が勝手に商品を積み込み倉庫に持ち帰ったと言うのです。
商品が出て来た事本当に良かったです。
しかし一つ間違えると大変な事になっていた。冷や汗物でした。
日本でしたらそんな事は絶対にない 海外は日本とは違うそれを学びました。
ケルンの見本市を体験して多くの事を学びこの体験した事 これは私にとって大きな財産だと思いました。
その後この見本市は参加したくても湾岸戦争があり見本参加は断念しました。
この日記を振り返りネットでケルン国際見本市を検索してみたら今も健在でした。
素晴らしい事です。
2022年05月28日
ケルン国際見本市を目指した10
2022年5月23日 ケルン国際見本市を目指して 10
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

ケルン国際家具見本市出展 2度目の挑戦
1994年 1月 出展商品は前回の見本市に出展した商品を保税貨物で現地の倉庫に
保管してあった為 小間のレイアウトを変えて出展した。
通訳の方も同じ人をお願いしての挑戦です。
前回と同じ成田からフランクフルトに向けて飛行機で向かそこから電車でケルンに向かいました。
宿泊はやはり商工会の紹介で前回とは違う家庭にホームステーでした。
ケルン駅に着きホストファミリーに電話をすると
ケルン駅までホストファミリーが出迎えてくれました。
この家は日本に奥さんの妹さんが嫁ぎ親戚があるとの事でした。
日本からのお土産に日本酒を持って行くと日本酒が大好きと言われました。
そして日本のとっくりと盃も見せてくれました。
見本市2日前に到着して会場の準備が始まりました。
どんな出会いがあるのか不安でした。
2022年05月27日
ケルン国際見本市を目指した9

2022年5月27日 ケルン国際見本市を目指して 9
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
ケルン国際家具見本事務所から出展許可が出 楽しみにしていた見本市です。
日本からの出展は当方を入れ2社でした。
来場者はヨーロッパ各地からが多い様に感じた。
ヨーロッパは陸続きの為列車か車で見学に来ます。
隣のブ-スはイタリアの家具の業者でした。
片言の英語で会話するもよく解らない会話でもマヒィア という言葉を何回も言っていました。
それがどういう意味なのか イタリアの言葉で解らなかったのを今も覚えています。見学者は日本は車と同じ様に家具でもヨーロッパ市場を攻めて来るのかと言われました。
ケルンの見本市は家具の卸売業者を探す目的 現在の様にITが使われていない時代でした。
短期間中に業者を探すのは難題でした。
最終の一日だけが一般公開で、会場に来た消費者は何処に行けばこの家具を購入できるのかと聞いて来ました。
出展した家具は消費者が購入したくても見本市会場での売買は禁止されていました。
サンプル販売が出来たなら本当に良かったです。
商品は保税扱いなので一般消費者には尚更販売が出来ないのでした。
2022年05月25日
ケルン国際見本市を目指した8

2022年5月21日 ケルン国際見本市を目指して 8
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
日本を出発するのは見本市2日前現地へ到着し、先ずはホ-ムスティ先を訪問挨拶から始まり少し話をして
次は日本から家具を送ってある倉庫業者との打ち合わせ商品は会場へと運んでもらい
会場では商品を開梱 ブースに飾り付けをしました。
この時点でブ-スのレイアウトはお願いしてあるから安心でした。
通訳さんとも会場で会い いよいよです。
日本を出て飛行機で仮眠をしたような状態でフルに動いて矢張り若さだと思いました。
それは限られた時間で色々をこなすから仕方のない事です。
ホ-ムスティ先では
朝食だけお願いし慌しく会場に出かけた。
最初の日はホームステ-先のお父さんが電車の乗り方を教えてくれた、
帰宅後双方片言の英語で辞書を片手に最低2時間位はコミニケーションを取りました。
会話は食事や旅行 日本の文化の紹介です。
その頃ドイツはカード社会ではなく まだ現金で買い物をする事が多く日本と似ていると思いました。
次に続きます
2022年05月24日
ケルン国際見本市を目指した7

2022年5月20日 ケルン国際見本市を目指して 7
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
前回ケルン見本市を視察して暫くしたらケルン国際見本市事務所から見本市出展許可が
正式に下りました。
テレビの密着取材の依頼もありましたがその頃は気持ち的に余裕もなくオリンピック見たいに
メダルが取れないと気持ち的にみじめにそして商談が上手く成立しない映像が流れたら
それも悲しく噂はぱっと広がるから それは丁寧にお断りをしました。
ケルン国際家具見本市事務所から出展許可が出ました。
1993年1月のケルン国際家具見本市に向け準備をした。
見本市のブ-スのレイアウトを現地の業者には依頼FAXでのやり取りが続きました。
通訳も探して準備は段々と進められた。
宿泊先は前回ホームステ-した家にお願いして 出展用の家具や装飾品は
20フィ-トコンテナに積み込み清水港からドイツへと私達が出発する1か月前に出港した。
1993年1月社長と私は成田から出発しフランクフルトへ飛行場で到着
右往左往しながら そこから列車に乗りライン川沿いをケルンへと向かいました。
前回はフランスから夜行寝台でケルンへの列車の旅でした。
今度は少し様子が解るので前回のように旅の不安は少しで済みましたが見本市への期待と不安はいっぱいでした。
宿泊先は前回ホ-ムスティした家にお願いしてあるからそれも安心していられました。
次に続きます
2022年05月23日
ケルン国際見本市を目指した6
ケルン国際見本市を目指して 6
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

外国の住宅と言ってもアメリカとは違っていた。
アメリカは広い敷地に住宅を建てて広々としていた。
ドイツの住宅はメゾネット方式 道路沿いに各家庭の玄関があり そして各家庭には裏庭があり
庭を囲むように家が建築されていた。 花が咲く季節はとても綺麗です。
勿論庭の手入れはかかせません。
大人の目が子供の遊ぶ姿や声が確認できる様に建築されているので安全です。
唯お世話になった住宅が皆そうなのかは解りません。
日本人がまだ珍しい時でしたら凄く良くしていただいた記憶がありました。
次の朝ホームステー先から電車にのりドイツケルン駅に集合し見本市会場へ行ったのですが
ここでもホ-ムステ-先のお父さんに電車の乗り方を教えてもらいケルン駅に向かいました。
駅から見本市会場に歩いて向かい事務局に挨拶をしてブースを見学した。
この時に各国の選ばれた家具に自分達の家具が参加できたらと思いました。
2022年05月21日
ケルン国際見本市を目指した4
ケルン国際見本市を目指して 4
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

パリから夜行寝台列車にのりドイツへと向かいました。
外国の夜行寝台列車は初めてで聞きながら自分たちの乗る列車に乗り込んだのでしたが
座席を間違えていたので日本の様に列車内を移動するなら楽なのですが一度降りで荷物を持ち自分達の
車両を探しました。
走り出して要約落ち着いた所に車掌が国境を越えるのでパスポートを預かると言ってきた
ええ~ パスポートは命の次に大事と
言われているのにそんなに簡単に渡せないと思っていた。
車掌が朝には返すからと何回も言い仕方なく渡しました。
暫くして途中キップを見に車掌が来た この時キップが1枚足らないと言われた。
新幹線の様に特急券と普通乗車券が必要だと解りました。
幸いドイツのお金を持っていたのでその場で支払いその問題は解決し良かったです。
それを助けてくれたのはアメリカ人の女性でした。
片言の日本語で教えてくれたのでした。
考えてみるとフランスの駅で寝台車の乗車券を買った時駅員の様子が変でした。
多分日本人だから困らせたと思います。
待ち時間があったので駅の切符売り場の様子を見ていると切符を担当した駅員が
何故か隠れてしまうのでした。
この時は特別気が付かないで終わりました。
普通は解らない外国人に親切にするのがと思うのですが残念な事だと思います。・・・
寝台車だから足を延ばして眠る事は可能ですがパスポ-トを預けた事 寝坊をして乗り越したら
それを考えると眠れませんでした。
列車が停車する度に駅名のスペルを確認 要約朝になり駅員がパスポートを返した時は
本当に良かったと思いました。
列車はライン川沿いのロマンチック街道を走りケルン駅に到着。
後で解ったのですがここが終点だったのです。
こんな事ならゆっくり眠れば緒かったと後から思いました。
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

パリから夜行寝台列車にのりドイツへと向かいました。
外国の夜行寝台列車は初めてで聞きながら自分たちの乗る列車に乗り込んだのでしたが
座席を間違えていたので日本の様に列車内を移動するなら楽なのですが一度降りで荷物を持ち自分達の
車両を探しました。
走り出して要約落ち着いた所に車掌が国境を越えるのでパスポートを預かると言ってきた
ええ~ パスポートは命の次に大事と
言われているのにそんなに簡単に渡せないと思っていた。
車掌が朝には返すからと何回も言い仕方なく渡しました。
暫くして途中キップを見に車掌が来た この時キップが1枚足らないと言われた。
新幹線の様に特急券と普通乗車券が必要だと解りました。
幸いドイツのお金を持っていたのでその場で支払いその問題は解決し良かったです。
それを助けてくれたのはアメリカ人の女性でした。
片言の日本語で教えてくれたのでした。
考えてみるとフランスの駅で寝台車の乗車券を買った時駅員の様子が変でした。
多分日本人だから困らせたと思います。
待ち時間があったので駅の切符売り場の様子を見ていると切符を担当した駅員が
何故か隠れてしまうのでした。
この時は特別気が付かないで終わりました。
普通は解らない外国人に親切にするのがと思うのですが残念な事だと思います。・・・
寝台車だから足を延ばして眠る事は可能ですがパスポ-トを預けた事 寝坊をして乗り越したら
それを考えると眠れませんでした。
列車が停車する度に駅名のスペルを確認 要約朝になり駅員がパスポートを返した時は
本当に良かったと思いました。
列車はライン川沿いのロマンチック街道を走りケルン駅に到着。
後で解ったのですがここが終点だったのです。
こんな事ならゆっくり眠れば緒かったと後から思いました。