
2022年05月31日
ケルン国際見本市を目指した12
2022年5月31日 ケルン国際見本市を目指し2度目の挑戦て 12

これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
ケルン国際家具見本市出展 2度目の挑戦
ケルン国際見本市が終わりブースのかたずけをして商品は倉庫に入れる様に業者に手配はしてありました。
家具を梱包して自分のブ-スに纏めて置いたが
トイレにいったり事務局に挨拶をしたりでいたが・・・
戻ると家具を置いたコマに帰ると商品がない
ええ~跡形もなくなっていた。 そんな馬鹿な
保税貨物扱いにしてありそれが無くなるとは・・・
直ぐに倉庫会社に連絡をした。
事務局にも相談した。
家具が出てこないとなれば警察に届けなくてはならない。
私たちも帰国が遅れる それは困る事です。
数時間経ち 倉庫会社から連絡が来た。
トラックの運転手が勝手に商品を積み込み倉庫に持ち帰ったと言うのです。
商品が出て来た事本当に良かったです。
しかし一つ間違えると大変な事になっていた。冷や汗物でした。
日本でしたらそんな事は絶対にない 海外は日本とは違うそれを学びました。
ケルンの見本市を体験して多くの事を学びこの体験した事 これは私にとって大きな財産だと思いました。
その後この見本市は参加したくても湾岸戦争があり見本参加は断念しました。
この日記を振り返りネットでケルン国際見本市を検索してみたら今も健在でした。
素晴らしい事です。
2022年05月29日
ケルン国際見本市を目指した11

2022年5月29日 ケルン国際見本市を目指し2度目の挑戦て 11
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
ケルン国際家具見本市出展 2度目の挑戦
同業者で日本から観光を兼ね見本市を見学に来ている人達が大勢いました。
この時小間を訪問した人が後に取引先となり どこに縁があるか解りません。
この時も消費者からは何処に行けば買う事が出来るのかと好評でした。
消費者に人気があっても見本市事務局の規定で会場では売買が禁止されていた為
問屋が見つからないので商売に結び着きませんでした。
この時ドイツのテレビ局の取材があり少しの時間民芸家具がテレビ放送された。
良い宣伝でした。
この時のテ-プを貰って置くと後から見れてよかったのですがその時はそんな事思いつかなかったです。
今の時代ですとHPやメールで交信しますが今思えば
ケルン国際家具見本市出展は10年早かったと思いました。
2022年05月28日
ケルン国際見本市を目指した10
2022年5月23日 ケルン国際見本市を目指して 10
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

ケルン国際家具見本市出展 2度目の挑戦
1994年 1月 出展商品は前回の見本市に出展した商品を保税貨物で現地の倉庫に
保管してあった為 小間のレイアウトを変えて出展した。
通訳の方も同じ人をお願いしての挑戦です。
前回と同じ成田からフランクフルトに向けて飛行機で向かそこから電車でケルンに向かいました。
宿泊はやはり商工会の紹介で前回とは違う家庭にホームステーでした。
ケルン駅に着きホストファミリーに電話をすると
ケルン駅までホストファミリーが出迎えてくれました。
この家は日本に奥さんの妹さんが嫁ぎ親戚があるとの事でした。
日本からのお土産に日本酒を持って行くと日本酒が大好きと言われました。
そして日本のとっくりと盃も見せてくれました。
見本市2日前に到着して会場の準備が始まりました。
どんな出会いがあるのか不安でした。
2022年05月27日
ケルン国際見本市を目指した9

2022年5月27日 ケルン国際見本市を目指して 9
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
ケルン国際家具見本事務所から出展許可が出 楽しみにしていた見本市です。
日本からの出展は当方を入れ2社でした。
来場者はヨーロッパ各地からが多い様に感じた。
ヨーロッパは陸続きの為列車か車で見学に来ます。
隣のブ-スはイタリアの家具の業者でした。
片言の英語で会話するもよく解らない会話でもマヒィア という言葉を何回も言っていました。
それがどういう意味なのか イタリアの言葉で解らなかったのを今も覚えています。見学者は日本は車と同じ様に家具でもヨーロッパ市場を攻めて来るのかと言われました。
ケルンの見本市は家具の卸売業者を探す目的 現在の様にITが使われていない時代でした。
短期間中に業者を探すのは難題でした。
最終の一日だけが一般公開で、会場に来た消費者は何処に行けばこの家具を購入できるのかと聞いて来ました。
出展した家具は消費者が購入したくても見本市会場での売買は禁止されていました。
サンプル販売が出来たなら本当に良かったです。
商品は保税扱いなので一般消費者には尚更販売が出来ないのでした。
2022年05月25日
ケルン国際見本市を目指した8

2022年5月21日 ケルン国際見本市を目指して 8
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
日本を出発するのは見本市2日前現地へ到着し、先ずはホ-ムスティ先を訪問挨拶から始まり少し話をして
次は日本から家具を送ってある倉庫業者との打ち合わせ商品は会場へと運んでもらい
会場では商品を開梱 ブースに飾り付けをしました。
この時点でブ-スのレイアウトはお願いしてあるから安心でした。
通訳さんとも会場で会い いよいよです。
日本を出て飛行機で仮眠をしたような状態でフルに動いて矢張り若さだと思いました。
それは限られた時間で色々をこなすから仕方のない事です。
ホ-ムスティ先では
朝食だけお願いし慌しく会場に出かけた。
最初の日はホームステ-先のお父さんが電車の乗り方を教えてくれた、
帰宅後双方片言の英語で辞書を片手に最低2時間位はコミニケーションを取りました。
会話は食事や旅行 日本の文化の紹介です。
その頃ドイツはカード社会ではなく まだ現金で買い物をする事が多く日本と似ていると思いました。
次に続きます
2022年05月24日
ケルン国際見本市を目指した7

2022年5月20日 ケルン国際見本市を目指して 7
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
前回ケルン見本市を視察して暫くしたらケルン国際見本市事務所から見本市出展許可が
正式に下りました。
テレビの密着取材の依頼もありましたがその頃は気持ち的に余裕もなくオリンピック見たいに
メダルが取れないと気持ち的にみじめにそして商談が上手く成立しない映像が流れたら
それも悲しく噂はぱっと広がるから それは丁寧にお断りをしました。
ケルン国際家具見本市事務所から出展許可が出ました。
1993年1月のケルン国際家具見本市に向け準備をした。
見本市のブ-スのレイアウトを現地の業者には依頼FAXでのやり取りが続きました。
通訳も探して準備は段々と進められた。
宿泊先は前回ホームステ-した家にお願いして 出展用の家具や装飾品は
20フィ-トコンテナに積み込み清水港からドイツへと私達が出発する1か月前に出港した。
1993年1月社長と私は成田から出発しフランクフルトへ飛行場で到着
右往左往しながら そこから列車に乗りライン川沿いをケルンへと向かいました。
前回はフランスから夜行寝台でケルンへの列車の旅でした。
今度は少し様子が解るので前回のように旅の不安は少しで済みましたが見本市への期待と不安はいっぱいでした。
宿泊先は前回ホ-ムスティした家にお願いしてあるからそれも安心していられました。
次に続きます
2022年05月23日
ケルン国際見本市を目指した6
ケルン国際見本市を目指して 6
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

外国の住宅と言ってもアメリカとは違っていた。
アメリカは広い敷地に住宅を建てて広々としていた。
ドイツの住宅はメゾネット方式 道路沿いに各家庭の玄関があり そして各家庭には裏庭があり
庭を囲むように家が建築されていた。 花が咲く季節はとても綺麗です。
勿論庭の手入れはかかせません。
大人の目が子供の遊ぶ姿や声が確認できる様に建築されているので安全です。
唯お世話になった住宅が皆そうなのかは解りません。
日本人がまだ珍しい時でしたら凄く良くしていただいた記憶がありました。
次の朝ホームステー先から電車にのりドイツケルン駅に集合し見本市会場へ行ったのですが
ここでもホ-ムステ-先のお父さんに電車の乗り方を教えてもらいケルン駅に向かいました。
駅から見本市会場に歩いて向かい事務局に挨拶をしてブースを見学した。
この時に各国の選ばれた家具に自分達の家具が参加できたらと思いました。
2022年05月22日
ケルン国際見本市を目指して5
2022年5月18日 ケルン国際見本市を目指して 5
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
見本市期間はホテルが取れないと言う事でケルンでは商工会から民泊を紹介していただきました。
ドイツではホテルは探さなくて良いのです。
ケルン駅で今度は市内の地図を買い紹介されたホームステー先を探した。
見本市期間中はホテルが満員で取れない為と言う事でこのような仕組みを昔からやっているとの事
素晴らしい事だと思いました。
片言の英語で住所を示し地図を広げて地元の人に聞きました。
地元の人に案内され市バスに乗ったが もたもたしていると運転者が目的地で降ろしてくれた。
お金は要らないと言われた。 無賃乗車です! なんて親切でしょう。
1軒の家に二人づつ宿泊し 総勢8名のホームステー先を確認して自分のホストファミリ-に
会ったのは暗くなってからでした。
次に続きます。

2022年05月21日
ケルン国際見本市を目指した4
ケルン国際見本市を目指して 4
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

パリから夜行寝台列車にのりドイツへと向かいました。
外国の夜行寝台列車は初めてで聞きながら自分たちの乗る列車に乗り込んだのでしたが
座席を間違えていたので日本の様に列車内を移動するなら楽なのですが一度降りで荷物を持ち自分達の
車両を探しました。
走り出して要約落ち着いた所に車掌が国境を越えるのでパスポートを預かると言ってきた
ええ~ パスポートは命の次に大事と
言われているのにそんなに簡単に渡せないと思っていた。
車掌が朝には返すからと何回も言い仕方なく渡しました。
暫くして途中キップを見に車掌が来た この時キップが1枚足らないと言われた。
新幹線の様に特急券と普通乗車券が必要だと解りました。
幸いドイツのお金を持っていたのでその場で支払いその問題は解決し良かったです。
それを助けてくれたのはアメリカ人の女性でした。
片言の日本語で教えてくれたのでした。
考えてみるとフランスの駅で寝台車の乗車券を買った時駅員の様子が変でした。
多分日本人だから困らせたと思います。
待ち時間があったので駅の切符売り場の様子を見ていると切符を担当した駅員が
何故か隠れてしまうのでした。
この時は特別気が付かないで終わりました。
普通は解らない外国人に親切にするのがと思うのですが残念な事だと思います。・・・
寝台車だから足を延ばして眠る事は可能ですがパスポ-トを預けた事 寝坊をして乗り越したら
それを考えると眠れませんでした。
列車が停車する度に駅名のスペルを確認 要約朝になり駅員がパスポートを返した時は
本当に良かったと思いました。
列車はライン川沿いのロマンチック街道を走りケルン駅に到着。
後で解ったのですがここが終点だったのです。
こんな事ならゆっくり眠れば緒かったと後から思いました。
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。

パリから夜行寝台列車にのりドイツへと向かいました。
外国の夜行寝台列車は初めてで聞きながら自分たちの乗る列車に乗り込んだのでしたが
座席を間違えていたので日本の様に列車内を移動するなら楽なのですが一度降りで荷物を持ち自分達の
車両を探しました。
走り出して要約落ち着いた所に車掌が国境を越えるのでパスポートを預かると言ってきた
ええ~ パスポートは命の次に大事と
言われているのにそんなに簡単に渡せないと思っていた。
車掌が朝には返すからと何回も言い仕方なく渡しました。
暫くして途中キップを見に車掌が来た この時キップが1枚足らないと言われた。
新幹線の様に特急券と普通乗車券が必要だと解りました。
幸いドイツのお金を持っていたのでその場で支払いその問題は解決し良かったです。
それを助けてくれたのはアメリカ人の女性でした。
片言の日本語で教えてくれたのでした。
考えてみるとフランスの駅で寝台車の乗車券を買った時駅員の様子が変でした。
多分日本人だから困らせたと思います。
待ち時間があったので駅の切符売り場の様子を見ていると切符を担当した駅員が
何故か隠れてしまうのでした。
この時は特別気が付かないで終わりました。
普通は解らない外国人に親切にするのがと思うのですが残念な事だと思います。・・・
寝台車だから足を延ばして眠る事は可能ですがパスポ-トを預けた事 寝坊をして乗り越したら
それを考えると眠れませんでした。
列車が停車する度に駅名のスペルを確認 要約朝になり駅員がパスポートを返した時は
本当に良かったと思いました。
列車はライン川沿いのロマンチック街道を走りケルン駅に到着。
後で解ったのですがここが終点だったのです。
こんな事ならゆっくり眠れば緒かったと後から思いました。
2022年05月20日
ケルン国際見本市を目指した3
ケルン国際見本市を目指して 3
これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
私たち8名はパリのシャルルドドゴール空港に右往左往向しながら到着した。
さて到着したが右も解らない。
インフォメーションセンタ-で聞きてみたその後
空港から地下鉄でパリの市内に行き地図を買い右往左往して予約してあったホテルを探し一日半
パリの家具店を見て回る予定でしたが週末は店が休みでした。
今の様にネットもない情報がない時代フランスは土日はお店が休みの所が多いとは知らないなかったのでした。
テレビで見るパリはファッションで有名 しかし町はごみや犬の糞で汚いのでとてもがっかりしました。
絵描きの卵で有名なモンマルトの丘に行ってみました。
少しでもヨ-ロッパで家具がどのように使用されているのか知りたかったのでした。
ホテルも出来るだけ安い所を予約したのでシャワ-だけの狭い部屋でした。
ホテルをチェッアウトしてフランスの駅に行きドイツまで夜行寝台の切符を買いました。
時間のある限りフランスの人達の暮らしを見たくてシャンゼリゼ通りも歩きましたがお店は閉まっていました。
あの有名なエッフエル搭に行きました。1月でしたから寒かったのは覚えています。
夜まで時間をつぶしながらドイツへの汽車の時間を待ちました。
次に続く

これは昔の日記からケルン国際見本市を目指した時の物です。
私たち8名はパリのシャルルドドゴール空港に右往左往向しながら到着した。
さて到着したが右も解らない。
インフォメーションセンタ-で聞きてみたその後
空港から地下鉄でパリの市内に行き地図を買い右往左往して予約してあったホテルを探し一日半
パリの家具店を見て回る予定でしたが週末は店が休みでした。
今の様にネットもない情報がない時代フランスは土日はお店が休みの所が多いとは知らないなかったのでした。
テレビで見るパリはファッションで有名 しかし町はごみや犬の糞で汚いのでとてもがっかりしました。
絵描きの卵で有名なモンマルトの丘に行ってみました。
少しでもヨ-ロッパで家具がどのように使用されているのか知りたかったのでした。
ホテルも出来るだけ安い所を予約したのでシャワ-だけの狭い部屋でした。
ホテルをチェッアウトしてフランスの駅に行きドイツまで夜行寝台の切符を買いました。
時間のある限りフランスの人達の暮らしを見たくてシャンゼリゼ通りも歩きましたがお店は閉まっていました。
あの有名なエッフエル搭に行きました。1月でしたから寒かったのは覚えています。
夜まで時間をつぶしながらドイツへの汽車の時間を待ちました。
次に続く
